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見守る三省

副園長のコラムcolumn日々考えること

最近、世の中で「不適切保育」という言葉をよく聞きます。今年はバスの置き去りの事件から始まり、今月初めでは徳島の保育園で、子どもが吐き出した食べ物を食べさせたり、園児が机の上にこぼした牛乳を紙片でかき集めてコップに入れて飲ませたりと、信じられないような身体的、精神的苦痛を与えるような保育が行われていたとニュースになっていました。普通に保育をするにあたって、そんなことが起こり得るのかと思ってしまいます。それと同時にとても心苦しく、そんな保育園や幼稚園ばかりではないのに、お子さんを預けられる保護者の不安がより募るのではないかと感じてしまいます。

 

では、なぜこういったことが起きるのでしょうか。徳島の保育において、調査をされた弁護士の報告書では「児童中心の保育観の欠如」「職員の意見交換の欠如」「保護者との関係が希薄」とこの三つが不適切保育が相次いだ原因だと指摘したそうです。特に職員同士や保護者とのコミュニケーションといったことは当然あるのでしょうが、最近、ここに挙げられている「児童中心の保育観の欠如」というのは日本においてとても課題になっている部分ではないかと思います。

 

以前取り上げた「成績が良いといじめられる日本人の特殊性」といった社会政策課題研究所の江崎禎英さんの東洋経済のコラムを取り上げて、書かせていただきましたが、そこで言われていた内容で「多くの教育現場では同じ学年の子どもは皆、同程度の能力を持っているというフィクション」を前提としているとありました。もしかすると不適切保育が行われていた園でも、「子どもはこうあるべき」といったものに保育士を含めた大人が実際の園児を当てはめていたのかもしれません。つまり、目の前の子どもの姿を認めるよりも、「保育者が思い描く理想の子ども」に子どもを当てはめて考えていたのだろうと思います。

 

今、幼稚園で行っている藤森メソッド(見守る保育)には「見守る三省」という3つの言葉があります。この言葉は額に入れて、各部屋にありますので、ぜひ見てほしいのですが、

 

・子どもの存在を丸ごと信じただろうか

子どもは自ら育とうとする力を持っています。その力を信じ、子どもといえども立派な人格を持った存在として受け入れることによって、見守ることが出来るのです。

 

・子どもに真心をもって接しただろうか

子どもと接するときは、保育者の人格が子どもたちに伝わっていきます。

偽りのない心で、子ども主体として接することが見守るということです。

 

・子どもを見守ることができただろうか

子どもを信じ、真心をもつことで、はじめて子どもを見守ることができるのです。

 

この言葉の意味や大切さをあらためて感じます。昼ごはん中に職員から「不適切保育をしている園も見守る保育を勉強した方がいいですね」と話していました。そして、その言葉には先にあった見守る三省を含めた意味があると思います。そういった志をもった言葉を職員から聞くことはとてもありがたく、感謝です。

 

子どもたちは本来は国にとってとても大切な存在であり、大切に育てなければいけません。しかし、その「大切」ということは何を指してそうあるべきなのかをよく考えなければいけません。その時に、見守る三省とは子どもをどういった存在として見るのかを改めて立ち返えって考える、まさに省みる(かえりみる)言葉であると改めて思いました。