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子どもたちの遊びを見ていると「面白いな」と感じあることや「不思議だな」と思うことが沢山見えてきます。冬でも子どもたちは元気いっぱい遊んでいるのですが、芝生で遊んでいる乳児の子どもたちを見ているとあることに気付きます。
1歳児の女の子が、雲梯を上っていました。上る前にキョロキョロと目を周りに振ります。その後、雲梯によじ登っていきました。どこまで上がるのかなと思ってみていたのですが、ある一定のラインまで行くと一度降りようと足を下に下げます。そして、一段降りた後に、もう一度上によじ登りました。一番上にいった時にまた周りを振り向いて、ゆっくりと降りてきました。
この一連の子どもの様子ですが、この様子から様々なことが見えてきます。上る前にキョロキョロと目を向けたのはもしかしたら、近くに自分の様子を見てくれる保育者の位置を確認していたのかもしれません。一度上って降りてきたのは降り方を確認したのかもしれません。その後上に上がってきたのは降り方が分かったので、もう一度ちょうせんしたのかもしれません。上に行った周りを振り向いたのは、上ったということを見てもらいたくて保育者に目を向けたのかもしれません。先生たちはその様子に対して、目線を配らせてアイコンタクトを取っていました。子どもの様子から、距離感を測っているようです。
ここでの子どもの様子の読み取りは「かもしれない」です。この読み取りと実際の子どもの気持ちとは違うかもしれません。ただ、この「かもしれない」と子どもたちを思うことはとても大切な見方であるように思います。「かもしれない」というのは子どもたちの気持ちに共感する行動です。この気持ちがないと、子どもたちの主体性というのは保障する事が出来ないようにも思います。
ただ、ここには「落ちるかもしれない」ということや「危ないかもしれない」という別の「かもしれない」ということもあります。保育をしていく上で、この子どもの可能性を保障する事と、怪我や子どもたちにとって不利益な事態になることにおいて、保育者の動きに取捨選択を求められる時があります。このときにどう考えるでしょうか。
ただ、必要だとの思うのは「その子には危険を回避するだけの力を持っていると信じること」と「もし落ちそうな子だと思った時に、助けれる距離感を取れるのか」ということを念頭に、それぞれの子どもたちがどれほどの力を持っているかと考える必要があります。そのうえで、子どもたちの危機管理能力をどうあげることが出来るかと考えることがあります。怪我しない、ではなく、怪我をしないようにするにはということを考える力です。実際、冒頭で出てきた女の子はその持っている能力を使い、自分のいける範囲の中で登ったり降りたりをしていました。こういったことが出来るから、保育者も距離をある程度取ることが出来たのだろうと思います。
以前、ドイツに行った時に、怪我について質問が出ました。ドイツでは遊ぶ環境は「危険なものは危険なものとして、知らせることでかえって慎重になる」ということで、経験を通して教えるということをしていました。自分自身の経験でも遊びの中で危ないことに対して、自分で調整していたように思います。「危ないから無くす、のではなく、危ないからこそ回避することを教えなければいけない」のだと思います。そして、その時に保育者はただ、「やらせない」のではなく、自分自身で「怖い」「危ない」「慎重にいこう」と感じさせながらも、「怪我しないように見守る」ということが大切になってきます。
隣ではジャングラミングを上っている2歳児の子どもが居たのですが、危ないからこそ、保育者はお尻を支えたり、落ちても受け止めて上げれるように補助していました。そして、降りれない子どもには降り方を指さして教えていました。こういった、子どもに対する関わりというのは子どもによって違いますし、それぞれに合わせた距離感を取ることがとても大切なように思います。ただ、危ないから無くすのではなく、さまざまな経験から学べるような関わりをしてあげる必要だと改めて感じました。
2023年1月19日