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個別最適化の学び

副園長のコラム

先日、幼稚園に小学校の先生方が見学に来られたことをブログに書きましたが、それはこれからの教育改革の中心となる令和の日本型学校教育への転換において、「幼稚園ではどのように主体的な保育を行っているのか」ということを知りたいということがありました。この令和の日本型学校教育の中心となる考えに「個別最適化の学び」と「協働的な学び」ということがあります。これまで日本は「集団」を中心とした教育が重視されてきました。それは「集団での学習指導によって学ぶ内容をそろえつつ、学び取る内容に生じる個人差に応じて、丁寧な補充指導を努力しよう」という教育感があったからであると「『個別最適な学び』と『協働的な学び』の一体的な充実を目指して」を著した奈須正裕氏は言います。一方で欧米は「学習における興味・関心や能力には個人差があるから学習者には個別に学ぶ機会を保障しよう」という教育感があるようです。ただ、奈須氏は両者は二極対立するものではなく、連携することで指導効果を高めると考えています。とはいえ、これまで「集団」をもとにしてきた日本の教育において「個別最適化」というものはなぜ、求められるようになったのでしょうか。集団中心の指導から個別最適化の学びへの変化には3つの背景があると奈須氏は言っています。

 

1つは「新たな画一化の波からの救済」です。近年、学級経営や授業実践がマニュアルされ学校ごとにマニュアルが作成され、すべての教師が同じように対応することがミッションになっている学校が増えているそうです。その内容は「指導方針」といった目指すものではなく、「毎時間の学習課題の確認と振り返りカードの記入」といったような具体的な行動基準にして行うノルマのようなものになっていることが多いようです。結果。学校の教員間の同調圧力を高めるような学校経営になってしまっていることになってしまっているようです。こういった動向は団塊の世代の大量退職による「実践知」の継承ができないことが要因になっています。それと同時に非正規雇用教員や人事異動などにより、力量不安な教員のための指導マニュアルなどの必要性もあるのだろうと奈須氏は言います。しかし、それは教員の自律性を損ない、多様な教員がいるメリットもなくなります。同調圧力が強くなると居心地のいい働きやすい学校にもならず、横並びの教育を助長させないということのために個別最適な学びの理念を推奨しているようです。

 

2つ目に「子どもたちの多様性へのまなざしの回復」があります。集団が優先される日本の学校教育では個性のある人格として子どもをとらえる前に全体指導で足並みをそろえようとする学習指導や生活指導が行われるが、それらは自律的な学習を育てることには貢献しませんし、子どもの自己肯定感は高まりません。集団において理想的または標準的な子どもの姿を共通に目標設定することは、テストなどの評価をよって今自分がどの位置にいるかという相対的な評価になります。そのため、不足部分を補うような心理が優先する指導に陥ってしまうのです。それと同時に評価に子どもが合わせるため、個性的な子どもへへの対応は難しくなります。いつの間にか学習の主導は子どもではなくなり、子どもの発想や個性的な問いは教師側の授業では教師の望む範囲まででしか答えられなくなります。そのため、子どもの学習進度の違いは能力差や努力差とみなされ、与えられた学習課題や学習に必要とされる時間は子どもの適したものではなくなります。結果、教師が指定した学び方が適していない子が教室に居づらくなり、学習意欲を失ったりするなど、子に対応できない事態が広がっていくのです。

 

最後に「義務教育の役割についての根本的な問い直し」です。これまでの義務教育は基礎基本とされる教科書的な知識技能を教師が主導する授業で教えこみ、どれだけインプットできたかをテストによって再現できる訓練のようなものでした。そのため、教師はいかに効率よく指導するかということが求められ、一斉指導することが最適であったといえました。しかし、この指導では限界があり、「落ちこぼれ」や「ふきこぼし」という子どもたちが出てきたことが現状としておきてきました。しかし、今の時代になってことで、ICT環境の進化、人工知能(AI)の技術的進化によって個人の知識獲得の方法の選択肢は増えてきました。そのため、個にあった学びのあり方がこれまでの常識とは違った選択もできるようになり、進化したテクノロジーをどう教育にいかすのかということが教育現場での変容にも生かされることが可能性が出てきたのです。

 

これらのことが変革における背景としてあるようです。これは何も学校だけに言えることではなく、乳幼児教育においても同様のことが言えるように思います。毎年同じことを繰り返すような保育。ここの子どもの選択や個性、発達を見ないで、あくまでクラス活動に子どもが合わせるような保育。こういった保育からいかに子どもの一人一人の発達に合わせた保育ができるのかということと同義に見えます。