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保育者・教育者の姿勢

副園長のコラムcolumn日々考えること

「子ども自ら育つ力を持っている」「子どもの力を信じる」と前回書きました。では、保育者や教師は何もしなくてもいいのかというと当然そうではありません。あくまで、「主体は子ども」ということであり、「選択肢は子どもにある」ということなので、保育者や教師が何もしなくてもいいというは「見守る」ことでもなく、ただの「放任」です。では、先生は何をしたらいいのか。

 

その大きな役割が「環境を作る」ということです。子どもたちが今学びたいと思ったことや、学びたいと思ったこと、やってみたいと思ったことに対して、「それができる環境を作る」ということがその役割になります。なので、藤森メソッド(見守る保育)では、常設のゾーンやコーナーが作られるのです。子どもたちが作ってみたいと思うものが実現できるように素材を置いたり、それらを作れるハサミや鉛筆などが必要になってきます。そこには子どもたちがどういったものに興味があったり、どういった反応をするのかといった環境構成をするにあたっての見通しやねらい、期待を保育者は持って環境を構成することが大切です。そして、それと同時に、子ども自らが働きかけるようにデザインすることも重要です。大人がおぜん立てして誘導することにあまり意味はありません。子どもたちが自ら動くことで、悩んだり、考えたりします。その葛藤や行動こそが大切です。こういったことを繰り返すことで子どもたちは自ら資質や能力をつけていくのです。

 

次に保育者が必要な役割が「使い方を教える」ことです。単純に環境があってもその使い方を知らなければ、正しく使えませんし、正しく使えないというのは危険も伴います。また、使い方の幅を広げるための活動をすることで遊びも広がります。何もなくても「おにごっこ」は始まりませんし、なにをしなくても「デカルコマニー」のような技法は起きません。ちょっとした「きっかけ」を作るために先生から投げかける活動は重要になるのだと思います。

 

では、このことが小学校ではどうなるのかというと、奈須先生はこれからはもっと「長期的なスパン」で単元を進めれるようになればいいと話していました。そして、単元の指導案を子どもにゆだねてもいいのではないかと話していました。かえって今の日本のカリキュラムは「この時期はこれをする」「ここまでは教える」とガチガチに決めすぎている節もあると話しています。しかし、だからといってすべて自由もかえって考えられなくなってしまう。いい意味で制約がないと子どもたちは考えられないとも言っています。「個性や自由は制約条件がないと発揮されない」と話していました。確かに、ある程度の決める道筋がないと決めようもありません。乳幼児と違うのはその選択の幅なのかもしれません。このように進めることで「先生がわからないところすら子どもが気付き始める」と話していました。しかし、「今の学校教育ではそういったことは生まれない」と言っています。指導ばかりされていると子どもたちは自ら考えることをしなくなるからです。「教える→任せる→できないことを聞きにくる」というプロセスが重要であるといっています。

 

子ども主体に学ばせていこうとすると、大人が子どもたちに対して行うことはあくまで「きっかけ」を与えることなのだろうと思います。そして、人が学ぶというプロセスは乳幼児だろうか、学生だろうが変わらないのだろうと思います。こういったプロセスを大切にすることで「自分で見つけるからこそ喜びになる。喜びが起きるから教科が好きになる。これが非認知能力につながる」と奈須先生がおっしゃられていました。私もまったくの同感です。これは乳幼児教育にも通じるものがあります。先生は教える指導者でもなければ、ただ見ている傍観者でもありません。ともに考え、ともに喜びあう支援者であり、伴走者として必要な役割であり、存在なのだろと思います。