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自ら育つ力を引き出す

副園長のコラムcolumn日々考えること

これからの学校教育が「個別最適化」であったり、「協働的な学び」ということがいわれています。そして、子どもが自ら学びに向かう「自由進度学習」が今教育現場で進められています。これは子どもが自らの理解度をもって、学ぶプロセスを自分で決めていくことであり、勉強する場所や学び方は子どもにゆだねられます。つまり、基本は自習です。しかし、現場の先生からするとなかなか頭を悩ませることも多いようです。そもそも「どうやって教えるの?」と悩むことがあるようです。しかし、こう考えることはそもそもの「学び」というものにおいて、その主体が誰なのかということに問題があるように思います。先日のブログにも書きましたが、そもそも学校教育は「国が登用するための優秀な人材を作る」ということに視点がおかれ、そのために「指導」ということが中心になり、ふるいにかけられることが始まりにありました。そこから平等に学習を授けることが義務となり、「脱落」ということができなくなったため、何とかして学年や等級を挙げていかなければいけなくなります。そのため、しっかりと子どもたちに「習熟させる」ことが目的になります。つまり、そもそもが「子ども主体」ではなく、教えなければいけない「教える側」が主体となっているのがそもそも学校教育の始まりであると言えます。

 

しかし、現在ICTやデジタルツールの発展とともに知識を得ることは教師だけではなくともできるようになりました。教師の知識だけではなく、デジタルツールを使うことで、より多くの知識を得ることができるようになったのです。さらに知識はツールを使うことで簡単に得ることができます。急激に変化が起きていくこれからの社会においては、知識を暗記するという能力は様々なツールが代替できるようになります。そのため、暗記する以上にそれらから得た知識をどう活用していくのかといった方がより重要な生きる力となってきます。だからこそ、先生から知識を教え覚えるのではなく、自ら環境を通して、自ら学んでいく姿勢や意欲を育てる自由進度学習に視点が向けられていくのです。しかし、この自由進度学習を行うということはなかなかハードルが高いと聞きます。先にも出した通り「どうやって教えるの?」と悩むことがあるといいますが、その大きな要因が「子どもを信じる」「子どもにゆだねる」といったことに難しい現状があるように思います。これは今たちばな幼稚園が「藤森メソッド」(見守る保育)をする上でも大きな最初の障壁となりました。まず、「子どもは自ら育とうとする力を持っている」と信じなければなかなかうまくいきません。この部分につまずくことが多いようです。

 

 

これからの令和的日本語型教育についての著者を出されている奈須先生は学校でまず変わっていくことが難しい要因の一つに教師側が「自分が教えたいという体質がある」と言っていました。もっと言うと、「生徒が教師の知らないことを知らないところで育っていることが嫌」ということもあるようです。つまり、子どもたちは「教えないとわからない」と無意識のうちにそう思い込んでいるということのようです。

 

このことはこれまでの子ども観でも同じことがあるように思います。「子どもは白紙で生まれてくる。だから、大人は子どもが困らないように教えてあげなければいけない」と思い込んでしまうことがあるのです。これは気を付けなければいけません。私自身もやはり保育者になったころはそう思っていました。しかし、実際保育現場に出ていくと、もちろん先生が教えなければいけないことが全くないことはないですが、かえって、子どもたちにゆだねた方が、思っている以上に成長していくということがありました。ただ、ここで重要なことは「子ども同士をつなげる」ことが重要です。

 

現場では「教師対子ども」で物事が考えられることが多いように思います。しかし、重要なのは「子ども対子ども」でした。「大人対子ども」では子どもに答えを簡単に与えすぎます。しかし、「子ども同士」であると子どもたちは最適解を「考えあう」のです。この頭の使いようがより深い学びになっていくのだろうと現場の経験を通して感じました。ふと考えるとかえって「大人が教えた子どもたち」のほうが幼いように感じます。

 

子どもたちは自然と「学びあっています」それを大人が信じれるかどうかなのだろうと思います。藤森メソッドはもともとは「見守る保育」といわれていました。「見守る」というのは「ただ見ている『放任』」ではありません。そして、「求めてもないのに与える『過保護』」でもありません。あくまで主体は子どもであり、子どもたちが求めているものに応えるという姿勢が重要なのです。いつでも助けてもらえる安心感があるからこそ、新しいことにチャレンジできるのです。そのためには相手を信じるといった「まごころ」が必要になります。一見甘いように思われますが、子ども主体というのは責任も子どもにゆだねられます。決して甘いものではありません。大人は一人の人(人格者)として子どもに向かうことが重要です。