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寄り添うことと活動

副園長のコラムcolumn日々考えること

学校教育が「教える→任せる→できないことを聞きにくる」という学習プロセスに変わってくるということを前回の幼稚園ブログに書きましたが、これからの学校教育において先生の立ち位置というのはどのように変わってくるのでしょうか。これを奈須先生は「学校教育の過去・現在・未来のモデル」として1990年にブランソン氏が来るべき情報化社会を見据えて提起したモデルがあります。

 

 

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1つ目は「口頭継承パラダイム」これは、教師があらかじめ正解を一方的に教え込むスタイルです。次に「現在のパラダイム」これは教師と生徒、生徒と生徒の間で双方向のやり取りがなされる学習スタイルです。今の日本の学習もここにある「現在のパラダイム」のスタイルといえます。しかし、このスタイルにおいても、あくまで生徒は常に教師を介してのみ、学習の対象である経験や知識に出会うように制約があるといいます。日本は生徒の問いを教師は大切にしてきたといえますが、それでも生徒の問いに対し「なるほど、皆さんの意見を聞いていると、こんな問いが成り立ちそうですね。ここからは皆でこの問いについて考えてみましょう」と常に教師を一度通過し、教師の発問の形として子どもたちに問いかけるというものです。生徒自身がその瞬間に現れた問いに対して自ら自由に学び進めるという状況は許容されてはいないのです。「口頭継承パラダイム」のように教師の一方的な関わりのものから、生徒同士の関わりがうまれただけ、「口頭継承パラダイム」に比べると「現在のパラダイム」は下半分が改善されたといえます。

 

では、3つ目の「情報技術パラダイム」はどうでしょうか。生徒は教師を介することなく、自らの判断で自由に知識データベースやエキスパートシステムといったものにアクセスし、各自が今、必要とする経験や知識に出会い、自立的・個性的に学びを進めるといわれています。しかも、そこでの学びは個性的であっても孤立的ではありません。生徒相互の間で自発的に生じる豊かで自然な対話や協働を伴いながら展開されるといっています。

 

今現在、たちばな幼稚園では、「選択制のある活動」を大切にしていますが、この情報技術パラダイムの方向性と藤森メソッド(見守る保育)における「選択制」のアプローチは似ているように思います。これは「なんでもいい」といった環境の中で活動するのではなく、活動の目的に向かって、自らアプローチしていけるようにしています。それは活動における難易度であったり、活動自体の選択肢であったり、さまざまです。そして、そこには学年の違う「異年齢の関係性」を作っています。それはそれぞれの年齢の子どもたちを「年齢」といった区分で見るのではなく、「自らの発達にあったもの」に取り組んでほしいからです。そして、その活動は選択により個性的なものとして選べ、異年齢の活動によって関わりの選択肢を増やすことで関係性を孤立的なものにならないようにしています。それに対して、保育者は指導を子どもたちにしていくのではなく、目標やねらいを設定し、子どもたちが自ら取り組み、孤立的にならないよう「つなぐ」ということが重要な支援になってきます。

 

よくよく考えていかなければいけないことは「そもそも学ぶのは誰で、何を学びたいのかも教師や保育者が決めることではなく、子どもたちに主導権がある」ということです。つい、大人は「学ばせたい」「教えたい」「〇〇させたい」と思ってしまいます。それは親心であり、悪いことではないと思います。教えなければいけないこともあります。しかし、その選択肢は子どもにあることが本来は自然なのだろうと思います。だからこそ、「今やるのか」「明日やるのか」や「どうやったらできるのか」ということを子どもたちとともに考え、時には選択肢を用意し、子ども自らが選ぶことを幼稚園では大切にしています。

 

藤森メソッドの見守る三省には「子どもの存在を丸ごと信じただろうか」「子どもに真心をもって接しただろうか」「子どもを見守ることができただろうか」という三つの顧みるポイントを示しています。まさに、子どもを一人の人格者として向き合うことを大切にしています。

 

「子どもに寄り添う」というのは「言いなりになる」ことでもなく、逆に「言うようにさせる」ことでもないように思います。子どもとともに考え、子ども自らが意欲をもって取り組んでいけるような環境を用意することを「寄り添う」ということのように感じます。

 

こういった子どもにおける味方は学校教育でもこれから大きく変わっていくことのように思います。しかし、以前学校の教育委員会の方々との懇談で、こういった意識の転換というのはなかなか難しいところがあるということをおっしゃっていました。その理由に「自分たちがそういった教育を受けていない」ということが大きいのでしょうが、これからの社会において、大人の子どもに対する向き合い方というのはとても重要になってくると思います。そもそも「子どもとはどういった存在なのか」ということを再定義することが必要になってくる時代なのだろうと思います。